【コラム】第8回「道徳にコントロールされるな」
メンタル編では3回も道徳の話をさせていただきました。
それでは飽き足らず、語りきれなかった分をこうしてコラムとして書いています。
なぜここまで道徳にこだわるのか。
僕たちは、道徳に行動をコントロールされているからです。
それも、自己肯定感を人質にとられるという方法で。
道徳にコントロールされないために、自己肯定感を守るために、僕たちは「道徳」というものについて知っておくべきだと思うのです。
【「みんな」って誰だ】
メンタル編 第6回で僕は「道徳的に正しいことはみんなにとって得」という話をしました。
みんなで争うより仲良くした方が、みんなに得でしょう。「争わずに仲良くする」ことが道徳的に正しいとされます。
しかし、戦争で敵国が攻めてきて、今まさに仲間たちの命が危険にさらされている場合はどうでしょう。「敵を倒し、仲間を守る」ことが美徳とされます。
「敵国とも争わずに仲良くすべき」と主張する人もいるでしょうが、「それで自国民を守れるのか?」、「やられる前にやれ」といった反対意見が出るでしょう。ここで語られているのは「『自国民を失う』という損を回避すべき」、「自国民を失うと損だが、敵国民を失うことは損ではない」という、損得の話です。そしてその損得は、あくまで「自分の国にとって」の話です。
「争うのはダメ」「仲良くすべき」というのは、あくまで「仲間うちで争うのはダメ」という話です。仲間うちで争って、仲間同士が消耗するという損を防いでいるのです。敵と争っても、勝つことさえできれば自分と仲間にとっては得です。勇ましく戦うことはむしろ美徳とされるのです。
「道徳的に正しいことはみんなにとって得」といっても、「みんな」とは地球上の全人類を指しているわけではありません。「自分が属する集団」を指しています。ごく限られたメンバーにとって得な選択肢を、僕たちは「道徳的に正しいこと」だと思っているのです。
(「敵国とも仲良くするべき」と考える人は、地球上の全人類を仲間だと考えています。戦争をするとお互いの国が消耗するので、地球全体で見ると損になると思われます。「戦争が起きると技術が飛躍的に進歩するので得」とか言い出すとややこしくなりますが)
【仲間の中で得をするのは?】
仲間にとって得な選択肢が道徳的に良いことだと言いましたが、仲間全員が得になるとは限りません。仲間うちでも、さらに限られた者だけが得をすることも多いです。
よく言われる道徳的な教えとして、「目上の人は敬う」というものがあります。例えば会社の上司だと、自分よりも知識や経験をたくさんもっているでしょう。上司を尊敬し、その人から学ぶことは自分にとっても得でしょう。ベテランの知識や経験が受け継がれることは、会社全体にとっても得です。
しかし「目上の人は敬う」という道徳がエスカレートして、変な話になることがあります。「上司より先に定時で帰ってはいけない」、「席に座っているところに上司が来たら、椅子から立ち上がって話をする」など。
自分の仕事がなくなったなら残業する意味はありません。座っていようが立っていようが話は聞けます。むしろ座っていた方がメモをとりやすかったりもするでしょう。
これらのケースでは、自分や会社全体が得をするわけではありません。得をするのは、上司本人です。自分は忙しいのに新人がさっさと帰ったり、自分が立って話をしているのに新人が悠々と座っていたりしたら、愉快な気分にはなれないかもしれません。上司の機嫌を良くするための道徳になってしまっているのです。
「先に帰ってはいけない」、「立ち上がらないといけない」というのは、会社全体ではなく、上司だけを得させるための道徳なのです。
【支配の道徳、嫉妬の道徳】
これらの道徳は、上司が機嫌よく過ごすために、新人に負担を強いています。立場が上の者が下の者をコントロールし、上の者の利益になるように動かす。下の者を支配する構造になっているのです。
このような支配のための道徳は、会社だけに見られるものではありません。
例えば日本人は「お金は汚いものだ」、「大金持ちになろうとするのは浅ましい考えだ」という道徳観をもっています。
アメリカ人などは逆に「ジャンジャン稼ぐ奴はかっこいい」という価値観を持っています。なぜ日本人は真逆の考えをもっているのでしょうか。
諸説ありますが、この考えは江戸時代、幕府が庶民をコントロールするために広めたものだと言われています。庶民が金持ちになり、力をつけると、幕府に不満を持った時に歯向かうかもしれない。それを防ぐために「金は汚い」という考えを植え付け、庶民がお金を儲けすぎないようにした、という説があります。
道徳は、立場が上の者が下の者を支配するために使えるのです。
支配のための道徳の恐ろしいところは、この道徳が庶民に浸透したとき、庶民が自らの足を引っ張るために機能することです。
ある貧しい村で、一人の男が商売に成功し、金持ちになったとしましょう。「お金は汚いもの」だと思っている村人たちは、金持ちを批判します。「成金め」「そんなに金が大事か」「裏で汚いことをやってるんじゃないの」と。
道徳とは仲間うちで得をできるように存在するものだったはずなのに、同じ村の仲間うちでの足の引っ張り合いになってしまうのです。その結果村の中から金持ちが生まれにくくなり、幕府に不満を持っても戦うことができなくなります。幕府にしか得にはなりません。
どうして得にもならないのに足の引っ張り合いをしてしまうのでしょう。
ここで鍵になるのは「嫉妬心」です。誰かが金持ちになっても自分に損はないように思いますが、自分を差し置いて成功している人に対する嫉妬の感情が生まれます。この嫉妬心を解消する一番簡単な方法が、成功者の足を引っ張ることです。
足を引っ張ってもお金はもらえませんが、嫉妬心が解消されるという意味では得になります。「お金は汚い」と言って成金を叩く人は、自分の嫉妬心を解消するために、成功者が失敗するようコントロールしようとしているのです。
道徳を上手く使うと、自分の利益のために他人をコントロールすることができます。道徳とは「人があるべき理想の姿」ではなく、人間をコントロールするためのものなのです。
【自己肯定感を人質に】
もちろん、道徳とは「人があるべき理想の姿」であって、他人をコントロールするためにあるわけじゃないと信じている人もいるでしょう。
しかし、そう信じてしまったらもう、道徳の術中です。
道徳と似たものに、「法律」があります。法律では「○○をした者には△△という罰を与える」と明確に定められています。みんなは罰を受けたくないので○○をしないようになります。そうやってみんなをコントロールしているが法律です。
道徳では「○○をしてはいけない」というみんなの共通認識はあっても、どんな罰が与えられるか、そもそも罰が与えられるかどうかは明確になっていません。にも関わらずみんなは道徳に従います。なぜなのでしょうか。
それは、みんなが「道徳とは『人があるべき理想の姿』だ」と信じているからです。
みんながそう信じたとき、道徳は「みんなをコントロールするもの」という機能を持つのです。
道徳が最初に生まれたときは、純粋に「人があるべき理想の姿」を示しただけのものだったのかもしれません。
しかしみんなが「道徳は正しい。道徳に従うべき」と信じたとき、道徳はみんなの行動をコントロールします。「お金は汚い」とみんなが信じた瞬間から成金を叩き始めますし、自分がお金儲けることに罪悪感を感じてしまいます。
罪悪感を感じるということは、「自分は悪人だ」と、自分の人間性を責めていることに他なりません。自分という存在を認められないというのは、自己肯定感が低い状態です。
メンタル編 第3回でもお話ししまたしが、自己肯定感は自信とつながり前向きに行動していくために必要不可欠なものです。「道徳とは『人があるべき理想の姿』だ」と信じていると、道徳に反する行為をすると大切な自己肯定感が傷ついてしまいます。
道徳は法律と違い、破ったときのペナルティーは明確になっていません。しかし道徳にもペナルティーはあります。それは仲間うちからの批判であり、自己肯定感への攻撃なのです。
道徳は僕たちの大切な自己肯定感を人質にとっているからこそ、明確なペナルティーが定められていないのに、僕たちを強くコントロールするのです。
【道徳で得する方法】
とはいえ、道徳に従うことが全て自分の損につながるわけではありません。
定時に帰らず残業していると、自分の時間が減ってしまうので損に感じます。しかしそうやって上司の機嫌をとり、気に入られれば得することもあるでしょう。上司に嫌われると損かもしれません。
「お金が汚い」と言っていると自分が金持ちになることは難しいでしょう。しかし現状の暮らしに満足しているのなら、金持ちを目指す必要はありません。周りの貧乏な仲間たちと一緒に、儲けている人を叩いていた方が暮らしやすいかもしれません。お金を貯めて謀反など起こさない方が、平和な国になれるということもあるでしょう。
「道徳はみんなにとって得」ということは、「仲間うちの道徳に従う奴」は仲間たちにとって得な行動をする、有益な奴です。仲間たちからは優遇され、信頼を得ることができます。
ある集団の中で信じられている道徳に従えば、その集団の中で快適に生きていくことができます。そして人間は、どんな集団にも属さずに生きていくということはできません。必ず何かしらの道徳に従い、恩恵を受けながら生きていくものなのです。必ずしも道徳を悪いものと考えることはありません。
【道徳が邪魔になるとき】
道徳が邪魔になるのは、「みんなと違うことをするとき」です。
「会社のことはおいておいて、自分の時間も確保したい」
「みんなは貧しい生活に満足しているけど、自分はお金を稼ぎたい」
道徳はみんなにとって得になることをさせようとします。自分勝手な行動を許しません。
「勤務時間以外も会社のために使え」、「抜け駆けをするな」と邪魔をし、「協調性のない奴め」、「欲深い奴だ」と自己肯定感を傷つけようとします。
社員がプライベートの時間を楽しんでリフレッシュしたり、趣味で得た知見を仕事に活かしたりするのは会社にとっても有益なはずです。貧しい村からお金持ちが生まれることも村にとって得でしょう。しかし道徳が誰のためにあるのか忘れて盲目的に従ったり、嫉妬に狂って足を引っ張ろうとすると、みんなが損をすることになりかねません。
そういう目的であれば、他人から叩かれても気にすることはないでしょう。胸を張って自分の道を進みましょう。
そして場合によっては、創作することを周りから反対されることがあるかもしれません。「マンガなんて描いてないで、もっと有意義なことに時間を使え」というように。
そう言われると返す言葉に詰まるかもしれません。しかし、その忠告に従ったときに誰が得するのかを考えてみましょう。
例えば会社の人が「マンガ描かずに仕事のために時間を使え」と言っているのなら、得をするのは会社です。家族が心配して言っている場合、マンガより有意義(と、されること)をすれば、家族は心配の種がなくなって得をするでしょう。
あまり仲良くない知り合いが言ってきたときは、損得とは関係なく盲目的に道徳的なことを押し付けているだけの可能性が高いです。大好きなマンガを描いて充実しているあなたに嫉妬した人が、足を引っ張るために忠告していることもあるでしょう。
その上、忠告を無視すると「せっかくアドバイスしたのに、恩知らずな」とこれまた道徳的な批判を行い、自己肯定感を傷つけようとする人もいるかもしれません。
ですがこれも、誰が得をするのか考えましょう。自分の人生なのですから、忠告に従うかどうかは自分で決める権利があるはずです。それを無視してとにかく忠告に従わせようとするのは、忠告する側の都合に過ぎません。
もちろん、客観的に見てあなたが幸せになるためにはマンガより別のことをした方が良い、ということはあるでしょう。集団に属しているからには忠告に従わないといけないこともあります。
他人から否定されたらすべて突っぱねろということではありません。他人からの言葉は冷静に受け止め、従うかどうかは慎重に決めるべきです。
そのときに、道徳の特徴を知っておかないと、盲目的に道徳に従うことになりがちです。それでは良い結果にはつながりません。
自分にとって何が得で何が損か。それを決めるのは自分自身です。自分の行動を自分の責任で決めるためにも、何もわからずに道徳にコントロールされないように気を付けるべきだと、僕は思うのです。
【まとめ】
長々とお話ししましたが、伝えたいことは次の3点です。
●その道徳に従うと、誰がどう得するの考える
●道徳より損得で考え、自己肯定感を守る
●嫉妬で他人の足を引っ張らない、嫉妬されても気にしない
いろいろ書きましたが、道徳は「人はどう生きるのが正しいか」を示したものでもあります。
今回は僕なりの考えをお話しましたが、道徳に対する考え方、人としての正しいあり方は、百人いれば百通りの答えがあるでしょう。
僕の意見も参考にしつつ、あなたの答えはぜひ、あなた自身で見つけてください。
その答えは、あなたの人生の指針になるでしょう。
それでは今回はこのへんで。
それでは飽き足らず、語りきれなかった分をこうしてコラムとして書いています。
なぜここまで道徳にこだわるのか。
僕たちは、道徳に行動をコントロールされているからです。
それも、自己肯定感を人質にとられるという方法で。
道徳にコントロールされないために、自己肯定感を守るために、僕たちは「道徳」というものについて知っておくべきだと思うのです。
【「みんな」って誰だ】
メンタル編 第6回で僕は「道徳的に正しいことはみんなにとって得」という話をしました。
みんなで争うより仲良くした方が、みんなに得でしょう。「争わずに仲良くする」ことが道徳的に正しいとされます。
しかし、戦争で敵国が攻めてきて、今まさに仲間たちの命が危険にさらされている場合はどうでしょう。「敵を倒し、仲間を守る」ことが美徳とされます。
「敵国とも争わずに仲良くすべき」と主張する人もいるでしょうが、「それで自国民を守れるのか?」、「やられる前にやれ」といった反対意見が出るでしょう。ここで語られているのは「『自国民を失う』という損を回避すべき」、「自国民を失うと損だが、敵国民を失うことは損ではない」という、損得の話です。そしてその損得は、あくまで「自分の国にとって」の話です。
「争うのはダメ」「仲良くすべき」というのは、あくまで「仲間うちで争うのはダメ」という話です。仲間うちで争って、仲間同士が消耗するという損を防いでいるのです。敵と争っても、勝つことさえできれば自分と仲間にとっては得です。勇ましく戦うことはむしろ美徳とされるのです。
「道徳的に正しいことはみんなにとって得」といっても、「みんな」とは地球上の全人類を指しているわけではありません。「自分が属する集団」を指しています。ごく限られたメンバーにとって得な選択肢を、僕たちは「道徳的に正しいこと」だと思っているのです。
(「敵国とも仲良くするべき」と考える人は、地球上の全人類を仲間だと考えています。戦争をするとお互いの国が消耗するので、地球全体で見ると損になると思われます。「戦争が起きると技術が飛躍的に進歩するので得」とか言い出すとややこしくなりますが)
【仲間の中で得をするのは?】
仲間にとって得な選択肢が道徳的に良いことだと言いましたが、仲間全員が得になるとは限りません。仲間うちでも、さらに限られた者だけが得をすることも多いです。
よく言われる道徳的な教えとして、「目上の人は敬う」というものがあります。例えば会社の上司だと、自分よりも知識や経験をたくさんもっているでしょう。上司を尊敬し、その人から学ぶことは自分にとっても得でしょう。ベテランの知識や経験が受け継がれることは、会社全体にとっても得です。
しかし「目上の人は敬う」という道徳がエスカレートして、変な話になることがあります。「上司より先に定時で帰ってはいけない」、「席に座っているところに上司が来たら、椅子から立ち上がって話をする」など。
自分の仕事がなくなったなら残業する意味はありません。座っていようが立っていようが話は聞けます。むしろ座っていた方がメモをとりやすかったりもするでしょう。
これらのケースでは、自分や会社全体が得をするわけではありません。得をするのは、上司本人です。自分は忙しいのに新人がさっさと帰ったり、自分が立って話をしているのに新人が悠々と座っていたりしたら、愉快な気分にはなれないかもしれません。上司の機嫌を良くするための道徳になってしまっているのです。
「先に帰ってはいけない」、「立ち上がらないといけない」というのは、会社全体ではなく、上司だけを得させるための道徳なのです。
【支配の道徳、嫉妬の道徳】
これらの道徳は、上司が機嫌よく過ごすために、新人に負担を強いています。立場が上の者が下の者をコントロールし、上の者の利益になるように動かす。下の者を支配する構造になっているのです。
このような支配のための道徳は、会社だけに見られるものではありません。
例えば日本人は「お金は汚いものだ」、「大金持ちになろうとするのは浅ましい考えだ」という道徳観をもっています。
アメリカ人などは逆に「ジャンジャン稼ぐ奴はかっこいい」という価値観を持っています。なぜ日本人は真逆の考えをもっているのでしょうか。
諸説ありますが、この考えは江戸時代、幕府が庶民をコントロールするために広めたものだと言われています。庶民が金持ちになり、力をつけると、幕府に不満を持った時に歯向かうかもしれない。それを防ぐために「金は汚い」という考えを植え付け、庶民がお金を儲けすぎないようにした、という説があります。
道徳は、立場が上の者が下の者を支配するために使えるのです。
支配のための道徳の恐ろしいところは、この道徳が庶民に浸透したとき、庶民が自らの足を引っ張るために機能することです。
ある貧しい村で、一人の男が商売に成功し、金持ちになったとしましょう。「お金は汚いもの」だと思っている村人たちは、金持ちを批判します。「成金め」「そんなに金が大事か」「裏で汚いことをやってるんじゃないの」と。
道徳とは仲間うちで得をできるように存在するものだったはずなのに、同じ村の仲間うちでの足の引っ張り合いになってしまうのです。その結果村の中から金持ちが生まれにくくなり、幕府に不満を持っても戦うことができなくなります。幕府にしか得にはなりません。
どうして得にもならないのに足の引っ張り合いをしてしまうのでしょう。
ここで鍵になるのは「嫉妬心」です。誰かが金持ちになっても自分に損はないように思いますが、自分を差し置いて成功している人に対する嫉妬の感情が生まれます。この嫉妬心を解消する一番簡単な方法が、成功者の足を引っ張ることです。
足を引っ張ってもお金はもらえませんが、嫉妬心が解消されるという意味では得になります。「お金は汚い」と言って成金を叩く人は、自分の嫉妬心を解消するために、成功者が失敗するようコントロールしようとしているのです。
道徳を上手く使うと、自分の利益のために他人をコントロールすることができます。道徳とは「人があるべき理想の姿」ではなく、人間をコントロールするためのものなのです。
【自己肯定感を人質に】
もちろん、道徳とは「人があるべき理想の姿」であって、他人をコントロールするためにあるわけじゃないと信じている人もいるでしょう。
しかし、そう信じてしまったらもう、道徳の術中です。
道徳と似たものに、「法律」があります。法律では「○○をした者には△△という罰を与える」と明確に定められています。みんなは罰を受けたくないので○○をしないようになります。そうやってみんなをコントロールしているが法律です。
道徳では「○○をしてはいけない」というみんなの共通認識はあっても、どんな罰が与えられるか、そもそも罰が与えられるかどうかは明確になっていません。にも関わらずみんなは道徳に従います。なぜなのでしょうか。
それは、みんなが「道徳とは『人があるべき理想の姿』だ」と信じているからです。
みんながそう信じたとき、道徳は「みんなをコントロールするもの」という機能を持つのです。
道徳が最初に生まれたときは、純粋に「人があるべき理想の姿」を示しただけのものだったのかもしれません。
しかしみんなが「道徳は正しい。道徳に従うべき」と信じたとき、道徳はみんなの行動をコントロールします。「お金は汚い」とみんなが信じた瞬間から成金を叩き始めますし、自分がお金儲けることに罪悪感を感じてしまいます。
罪悪感を感じるということは、「自分は悪人だ」と、自分の人間性を責めていることに他なりません。自分という存在を認められないというのは、自己肯定感が低い状態です。
メンタル編 第3回でもお話ししまたしが、自己肯定感は自信とつながり前向きに行動していくために必要不可欠なものです。「道徳とは『人があるべき理想の姿』だ」と信じていると、道徳に反する行為をすると大切な自己肯定感が傷ついてしまいます。
道徳は法律と違い、破ったときのペナルティーは明確になっていません。しかし道徳にもペナルティーはあります。それは仲間うちからの批判であり、自己肯定感への攻撃なのです。
道徳は僕たちの大切な自己肯定感を人質にとっているからこそ、明確なペナルティーが定められていないのに、僕たちを強くコントロールするのです。
【道徳で得する方法】
とはいえ、道徳に従うことが全て自分の損につながるわけではありません。
定時に帰らず残業していると、自分の時間が減ってしまうので損に感じます。しかしそうやって上司の機嫌をとり、気に入られれば得することもあるでしょう。上司に嫌われると損かもしれません。
「お金が汚い」と言っていると自分が金持ちになることは難しいでしょう。しかし現状の暮らしに満足しているのなら、金持ちを目指す必要はありません。周りの貧乏な仲間たちと一緒に、儲けている人を叩いていた方が暮らしやすいかもしれません。お金を貯めて謀反など起こさない方が、平和な国になれるということもあるでしょう。
「道徳はみんなにとって得」ということは、「仲間うちの道徳に従う奴」は仲間たちにとって得な行動をする、有益な奴です。仲間たちからは優遇され、信頼を得ることができます。
ある集団の中で信じられている道徳に従えば、その集団の中で快適に生きていくことができます。そして人間は、どんな集団にも属さずに生きていくということはできません。必ず何かしらの道徳に従い、恩恵を受けながら生きていくものなのです。必ずしも道徳を悪いものと考えることはありません。
【道徳が邪魔になるとき】
道徳が邪魔になるのは、「みんなと違うことをするとき」です。
「会社のことはおいておいて、自分の時間も確保したい」
「みんなは貧しい生活に満足しているけど、自分はお金を稼ぎたい」
道徳はみんなにとって得になることをさせようとします。自分勝手な行動を許しません。
「勤務時間以外も会社のために使え」、「抜け駆けをするな」と邪魔をし、「協調性のない奴め」、「欲深い奴だ」と自己肯定感を傷つけようとします。
社員がプライベートの時間を楽しんでリフレッシュしたり、趣味で得た知見を仕事に活かしたりするのは会社にとっても有益なはずです。貧しい村からお金持ちが生まれることも村にとって得でしょう。しかし道徳が誰のためにあるのか忘れて盲目的に従ったり、嫉妬に狂って足を引っ張ろうとすると、みんなが損をすることになりかねません。
そういう目的であれば、他人から叩かれても気にすることはないでしょう。胸を張って自分の道を進みましょう。
そして場合によっては、創作することを周りから反対されることがあるかもしれません。「マンガなんて描いてないで、もっと有意義なことに時間を使え」というように。
そう言われると返す言葉に詰まるかもしれません。しかし、その忠告に従ったときに誰が得するのかを考えてみましょう。
例えば会社の人が「マンガ描かずに仕事のために時間を使え」と言っているのなら、得をするのは会社です。家族が心配して言っている場合、マンガより有意義(と、されること)をすれば、家族は心配の種がなくなって得をするでしょう。
あまり仲良くない知り合いが言ってきたときは、損得とは関係なく盲目的に道徳的なことを押し付けているだけの可能性が高いです。大好きなマンガを描いて充実しているあなたに嫉妬した人が、足を引っ張るために忠告していることもあるでしょう。
その上、忠告を無視すると「せっかくアドバイスしたのに、恩知らずな」とこれまた道徳的な批判を行い、自己肯定感を傷つけようとする人もいるかもしれません。
ですがこれも、誰が得をするのか考えましょう。自分の人生なのですから、忠告に従うかどうかは自分で決める権利があるはずです。それを無視してとにかく忠告に従わせようとするのは、忠告する側の都合に過ぎません。
もちろん、客観的に見てあなたが幸せになるためにはマンガより別のことをした方が良い、ということはあるでしょう。集団に属しているからには忠告に従わないといけないこともあります。
他人から否定されたらすべて突っぱねろということではありません。他人からの言葉は冷静に受け止め、従うかどうかは慎重に決めるべきです。
そのときに、道徳の特徴を知っておかないと、盲目的に道徳に従うことになりがちです。それでは良い結果にはつながりません。
自分にとって何が得で何が損か。それを決めるのは自分自身です。自分の行動を自分の責任で決めるためにも、何もわからずに道徳にコントロールされないように気を付けるべきだと、僕は思うのです。
【まとめ】
長々とお話ししましたが、伝えたいことは次の3点です。
●その道徳に従うと、誰がどう得するの考える
●道徳より損得で考え、自己肯定感を守る
●嫉妬で他人の足を引っ張らない、嫉妬されても気にしない
いろいろ書きましたが、道徳は「人はどう生きるのが正しいか」を示したものでもあります。
今回は僕なりの考えをお話しましたが、道徳に対する考え方、人としての正しいあり方は、百人いれば百通りの答えがあるでしょう。
僕の意見も参考にしつつ、あなたの答えはぜひ、あなた自身で見つけてください。
その答えは、あなたの人生の指針になるでしょう。
それでは今回はこのへんで。